World Horseback Archery Federation

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弓矢について

モンゴルの弓矢

弓は中短弓で、材料は白樺や竹の薄板と山羊の角、腱などを魚の浮袋から抽出された膠で張り合わせて作られます。こうした製造技術は、親から子へ代々秘して受け継がれているもので、昔からほとんど変わっていないといわれています。矢は、箆の材料にヤナギを用い、それにワシの矢羽を付け、金属製の鏃、または角を加工した鏃があります。

韓国の弓矢

弓は短弓で、水牛などの角に竹、腱を貼り合わせた、いわゆる大陸系のもので、腱は叩いて余分な脂分を除いた後、魚の浮袋から抽出された膠を接着剤として用い、腱を貼って乾燥させるという工程を9回繰り返し、完成までおよそ1年を要します。矢は鳥の羽に竹の箆が用いられます。

日本の弓矢


日本の上古の弓は、自然木を削りだした丸木弓で、その材料となった木によって梓弓、檀弓、槻弓、櫨弓、柘弓等の名称があります。

その後12世紀後半頃には、竹を合わせた伏竹弓という合せ弓が作られるようになります。弓は長弓であり、おおむね全長7尺5寸(約2m25cm )ほどで、握り部から短下上長の独特の型式をしています。
弦は古くは塗弦といって麻を漆で黒く塗ったものが用いられました。
矢は、材料に竹を用い、それに矢羽を付け、金属製の鏃、または鹿の角や木を加工した鏑矢や神頭、蟇目といわれるものがあります。

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日本の伝統馬術

日本の伝統馬術 

騎射にとって、弓射の技術はもとより、騎乗の技術が特に重要なことは言うまでもありません。
騎射をはじめとする馬上武術の発達と共に練磨されてきた日本独自の馬術は、流派の発生と共に古くは小笠原流・大坪流・八条流・内藤流といった馬術流派が現れ、馬上武術がその実用を失って衰退した室町時代以降も、馬術自体は盛んに続けられてきました。

江戸時代になると、軍用から離れた和式馬術は、庭乗りといわれる、現在の馬場馬術のように、馬の動きを華やかに見せる方向へと変化していきます。そうした本来の姿を失いつつあった和式馬術も、徳川八代将軍・吉宗が行なった享保の改革では、再び戦闘馬術が見直されたため、流鏑馬・笠懸・犬追物が復興され、度々行われるようになります。
また、当時馬術の達人といわれた斎藤主税定易が「大坪本流」を興したのをはじめとし、各藩に伝わる古流から新流派が次々と現れたのもこの頃です。

しかし、慶応年間には幕府がフランス式騎兵術を導入したり、さらに明治維新後は近代軍馬としての能力向上の必要性から、国策として西洋の馬術や馬匹の輸入と共に在来種との
交配が徹底して行われ、和式馬術や在来種はその文化的価値を問われる暇もなく、急速に淘汰されていきました。しかも、騎乗法の奥義は口伝により師から弟子へ代々継承されるものであったため、現在その技術のほとんどが不明です。


参考文献  『日本武道全集』  新人物往来社

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高麗流

日本の伝統馬術の祖「高麗流」
 
3世紀末、中国の正史『三国志 魏書東夷伝倭人条』(魏志倭人伝)は、魏の役人が当時倭と呼ばれていた日本の様子を伝えたものですが、そこに【其地無牛馬豹羊鵲】とあることから、まだ牛や馬がいなかったことがわかります。そして、馬が初めて文献に現れるのは次の記事です。
 
『日本書紀 巻十 應神天皇』
【十五年秋八月壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直岐 貢良馬二匹 即養於輕坂上廐 因以阿直岐令掌飼 故號其養馬之處 曰廐坂也】
 
これは応神天皇十五年(404)、百済王から日本に派遣された阿直岐が、貢物として良馬二匹を献上し、以後、軽坂の上の厩で飼育したことを記したものです。良馬二匹とは繁殖を考えての牡馬、牝馬であったと思われるため、同時にこれが馬産の最初、あるいは既にその環境があったことを示唆しています。

一方、古くから馬術の流儀に「高麗流」と呼ばれるものがありました。しかし、その技術など詳しいことは不明でした。江戸・八代将軍吉宗の時代、馬術家の近藤壽俊が「高麗流とはいかなるものか」と問われ、次のように答えています。
 
「応神天皇の時代に百済の阿直岐が良馬二匹を献上し、そのとき伝えられた馬の騎乗法や飼育法が編纂された際、由来を示すために高麗流と名付けたものであろう」
 
さらに近藤壽俊は、上層階級で秘かに受け継がれていた「高麗流」は、のちに文徳天皇の皇子・能有新王が自身の射芸馬芸とともに清和天皇の第六皇子・貞純親王に伝授し、やがて清和源氏の八幡太郎義家、新羅三郎義光へと受け継がれた、と述べています。
 
ところで、「高麗流」は「迎來流」と表記されることも多く、一般的に“こうらいりゅう”として知られています。しかし、名の由来が応神紀に阿直岐が伝えたことによるのであれば、本来“こまりゅう”と読むのが正しいように思えます。


参考文献  『日本馬術史』  原書房

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騎射戦の考察

為朝の弓術と景能の馬術

近代に至るまで、騎射(弓馬)は武門の象徴として重んじられてきましたが、意外にも騎射による実戦の記録は数少なく、またその解釈も様々です。
その中で、大庭景能と鎮西八郎為朝との対決を記した、「吾妻鏡」建久二年八月一日条は、騎射戦における弓術と馬術が同時に表現されたものとして興味深いものです。
 
【景能は保元合戦のことを語る。この間申して伝わく、勇士の用意すべきは武具なり。就中に、縮め用うるべきは、弓箭の寸尺なり。鎮西八郎は、わが朝無双の弓矢の達者なり。しかれども弓箭の寸法を案ずるに、その涯分に過ぎたるか。その故は、大炊御門の河原において、景能八男が弓手に逢う。八男弓を引かんと欲す。景能潜かにおもえらく、貴客は鎮西よりいで給うの間、騎馬の時、弓いささか心に任せざるか。景能は東国においてよく馬に馳るるなりてえれば、すなわち八男が妻手に馳せ回るの時、縡相違い、弓の下を越ゆるに佩及びて、身に中るべきの矢、膝に中り訖んぬ。この故実を存ぜずば、たちまちに命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべきことなり。壮士等耳底に留むべし。(略)】
 
これは保元合戦の時、大庭景能が大炊御門河原で鎮西八郎為朝と対峙したときに、為朝に左膝を射抜かれながらも、その馬術の功により命を落とさずに済んだという景能自身が語った体験談で、現在も当時の騎射戦を分析する上で、この時の状況や為朝に対する景能の動きについては様々な解釈がされていますが、ここでは為朝の弓矢にも視点を置き検証してみたいと思います。(景能が左の膝を射られたことは、吾妻鏡 建久六年三月十日条「弓手(左側)の鐙は少しみじかし。保元の合戦の時、射らるる故なり」とあることから推察)
 
先ず、景能が指摘した弓矢の寸法の問題は、元々日本の弓は、平均七尺五寸(2m25cm )の長弓ながら短下長上の造りであり、この短下のため馬上で取廻しがよく、あらゆる方向への射撃を可能としています。そして矢の仕様はその弓の引き重量と引き尺に対応して決められるものです。
しかし、単純に弓の寸法を長くした場合、比率的に握りから下も長くなり、程度によっては馬体や自分の体が障害になってきます。これは標的が近距離にあって、狙いを下げるときや、弓手(左横)から後方にかけて狙うときに、弓の本筈が自分の足や馬体と干渉しやすくなるためです。また、そういった下方、後方への射撃姿勢は、体を捻ることから本来の引き代を得るのが難しいため、必要以上に長く重い矢では、充分に弓を引ききれなかった場合、軽い矢に比べて的中に大きな差が生じます。
恐らく、景能が冒頭で「縮め用うべきは、弓箭の寸尺なり」と強調し、為朝の弓箭を「その涯分に過ぎたるか」というのは、為朝の弓が身長に対しあきらかに長大であったのか、あるいは弓の握りから上下のバランスに問題があったのか、それに加え矢のほうも長大なものだったのか、いずれにせよ、一目で馬上での取廻しに難があることが分かったということだと思われます。さらに、日本の騎射戦における馬術の要は、先に相手の死角に廻り込むための旋回技術であり、その技の優劣は勝敗を決する重要な要素です。そのため景能はすばやく馬手側に廻り込むことで、「騎馬に不慣れ」な為朝との馬術的格差を拡げ、同時に弓矢の不利を誘ったと思われます。
つまり、景能は為朝に対し、その懐に飛び込むように、比較的近い距離を、為朝の弓手側から背後、そして妻手側に馳せ廻って、それを狙い追わせて不利を誘い射損じさせたあと、二の矢を番える隙に攻撃に転じるか、または離脱しようと考えたに違いありません。結果として、馬を廻して弓を射るために軸となる左足を射られてしまったためか、反撃とまではいかなかったようですが、もし、為朝の正面を廻っていたならば、その長大な弓や馬術的な不利もなく、まともに射抜かれていたでしょう。
付け加えれば、景能自身すら「わが朝無双の弓矢の達者」と認めるほどの相手が既に弓を引こうとしたところでは、既に手遅れといってよく、そのとき景能が弓などを構える余裕など無かったと思われます。それでも瞬時に相手の弓の不利を見抜く鋭い感覚と得意の馬術をもって、「馬手側に馳廻る」という故実通りの戦法により、景能自身が九死に一生を得たことを体験して、その有効性を評価しているのです。
特に実戦では一瞬の判断が決め手となり、またそう何度も攻撃の機会が得られるわけでもありません。このとき為朝も景能に対し、さらに二の矢を射たという話は伝わっていません。
これは景能の馬術と為朝の弓術が出会った、ほんの一瞬の出来事だったのです


参考文献  全譯 吾妻鏡 新人物往来社
      近藤好和 『弓箭と刀剣』 吉川弘文館
      川合康 『源平合戦の虚像を剥ぐ』 講談社選書メチエ

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日本の伝統馬具

馬具の形態変化
 
馬具は大まかに、轡(くつわ)、鞍(くら)、鐙(あぶみ)の3つに分けられます。
これらは世界各国、その国々の馬術用途によって発達し、それぞれ形に特徴があります。当然ながら、日本の馬具は日本の馬に合うように設えられたものとなっています。もちろん様式美だけでなく、馬術に則した機能性も持たせているため、馬体への鞍や鐙の装着位置などによる理想的な重心位置は、日本の馬の体型でなければ得にくいようです。このことは騎射など馬上武芸を実行する上で重要な要素です。
また、日本ではその鐙において、世界に類のないほどの大きな変化を見せました。古墳・奈良時代には、輪鐙や壷鐙だったものが、壬申の乱の頃は半舌鐙になり、平安~鎌倉時代には長舌鐙になり、室町時代から江戸時代には、今なお多く現存する中舌鐙(五六掛鐙)になります。
この形態変化は、騎兵による装備・戦術の変化の影響を受けたもので、重装備化が進むにつれ鐙が大型化し、歩兵中心の集団戦に移行すると共に簡略化していったことを表しています。


参考文献  金子家教 『武田流馬術教範』 

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日本の在来馬

日本在来馬の保存活用
 
モウコウマを先祖とする日本在来馬は、4世紀頃に朝鮮半島を経由してもたらされたものといわれています。その後5世紀頃には馬具と共に盛んに輸入されるようになり、やがて日本各地に広がっていきます。
その種類も、亜種や生産地により、明治末期には約50種を数えましたが、その後南部馬など多くが絶滅してしまったため、現在では北海道和種・木曽馬・御崎馬・宮古馬・対州馬・野間馬・トカラ馬・与那国馬の8種を残すのみとなり、頭数も約1,700頭程度に減少しています。
こうした在来馬がおかれている厳しい状況を憂慮し、現在その8種それぞれに保存会が設けられています。
また近年では、在来馬の特性や適性を生かした保存活用への取組みや、文化的価値を見直す活動も活発になってきており、在来馬を使った乗馬や流鏑馬などが全国各地で行なわれるようになりました。特に流鏑馬などでは、その本来の姿を追求する手段として、関係者の間で注目されています。


参考資料 農林水産省生産局畜産部畜産技術課 『馬関係資料』

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撃毬

韓国の騎馬競技・撃毬(ギョック)
 
撃毬とは、馬に乗り杖匙(ザンシ)という先端に輪のついた撥(バチ)を使って木球を突き、相手のゴールに入れる騎馬競技です。西洋のポロ、日本の打毬とよく似ています。
古くから朝鮮半島では、競技としてだけでなく騎馬戦術の訓練としても重視され、騎射とならんで盛んに行われてきました。
撃毬の起源は、高句麗時代にペルシアから唐を経て朝鮮半島に伝わったものと考えられ、文献では『高麗史』太祖2年にはじめて記録がみられます。
朝鮮時代、ハン チユンが書いた『海東歴史』には、唐の昭宗889年、渤海の使臣・ワンムングが日本で撃毬を披露し、日本の天皇から褒美として綿200屯を賜ったことが記されています。
このとき日本の天皇は、臣下と賭けをしながら撃毬観戦を楽しんだそうです。また、そうしたことから、当時の日本に撃毬が伝えられていた可能性もあると考えられています。
撃毬は、特に歴代朝鮮王室で愛され、継承されてきました。初代イ ソンゲ(李成桂)王も、撃毬の熟達者であったことが伝えられています。
 
現在の撃毬

1994年3月20日、(社)韓民族伝統馬上武芸撃毬協会が発足し、キム ヨンソプ氏によって長い間忘れられていた撃毬が復元されました。
また、この会は純粋な民間団体ではありますが、撃毬の復興・紹介活動は、韓国の学界や多くの文化界から高く評価されています。